今朝スタバで見かけた『プラダを着た悪魔2』のドリンク。「座席代」と割り切っているはずのスタバに通い、スタンプを眺めて人生を振り返ってしまうのか。その巧妙な戦略を紐解きます。
今朝、ふらっと立ち寄ったスターバックスのレジ横で、映画『プラダを着た悪魔2』の公開を記念した2種類のコラボドリンクの案内が目に入った。時間がなくて写真は撮り損ねてしまったけれど、かつて劇中でアンディが必死にミランダのためのコーヒーを運んでいた「コーヒーラン」のシーンが脳裏をよぎる。
紹介されていたのは、妥協を許さない悪魔的編集長を表現した、フォームなし・熱め・ショット追加の無脂肪乳ラテ「ザ・ミランダ」。そして、葛藤しながらも洗練されていく主人公をイメージした、シナモン香るオーツミルクカプチーノ「ザ・アンディ」。どちらも既存メニューの「カスタマイズ」で映画の世界観を再現したものだという。
それにしても、なぜこれほどまでにスターバックスは映画に登場し、人々のアイコンであり続けるのだろうか。
映画におけるスタバが象徴するもの
前作が公開された2000年代初頭から、映画におけるスターバックスは「多忙で洗練された都市生活(アーバン・ライフスタイル)」の象徴だった。片手にスタバの紙カップを持ち、ヒールを鳴らしてニューヨークの街を闊歩する姿は、現代の働く大人の戦闘服のようなものだ。
しかし同時に、それは「資本主義による均一化」の象徴でもある。世界中どこに行っても同じロゴ、同じ味、同じ安心感。それはクリエイティブな個性とは対極にある「記号」だ。だからこそ、コーヒーを「フルーツ(農作物)」としてこだわり抜いて淹れるサードウェーブ系の専門店を知る人からすれば、「スタバのコーヒーはとにかく濃くて、あれは座席代として払うもの」という冷ややかな視線を向けられることも少なくない。
実際、私も深みとコクのある「スマトラ」だけは唯一美味しいと思うものの、本当に美味しい1杯を求める時は別のサードウェーブ系カフェへ足を運んでしまう。
「味」ではなく「安心」を売るインフラ戦略
それなのに、気づけば私たちはスタバに吸い寄せられている。この矛盾こそが、スターバックスの恐ろしいほどのブランド戦略だ。
彼らが展開しているのは、一定地域へ集中的に出店する「ドミナント戦略」である。街のあらゆる角に店舗を配置することで、消費者の視界をジャックし、「探さなくてもそこにある」という圧倒的な利便性を作る。
さらに、彼らが提供しているのはコーヒーの味そのものというよりも、「サードプレイス(第3の落ち着ける場所)」という空間と安心感だ。見知らぬ土地へ移動したとき、あるいは仕事に疲れて一息つきたいとき、あの緑の人魚のロゴ(サイレン)が見えるとホッとする。外さないという「予測可能性」が、私たちの脳に安心信号を送るのだ。
均一化のなかに潜む「ゆるやかな個性の演出」
面白いのは、彼らが「どこに行っても同じ安心感」をベースにしながら、同時に「店舗ごとの違い」や「地域限定」というスパイスを効かせている点だ。建築デザインにこだわったコンセプトストアを展開したり、地域ごとの個性を出したりすることで、均一化による飽きを防いでいる。
そして極めつけが、デジタル上で地味に貯まっていく「マイストアスタンプ」のような仕組みだ。
アプリを開いてスタンプが並んでいるのを見ると、「ああ、あのとき出張でここへ行ったな」「あの移動の合間にここで一息ついたな」と、自分の人生の移動履歴や足跡を振り返るトリガーになる。
これは単なるスタンプラリーではない。スターバックスという巨大なインフラが、「私の個人的な思い出の背景」として人生にカスタマイズされ、深く内面へコミットしてくるエンゲージメント戦略なのだ。
味の良し悪しを語るステージを飛び越え、日常のインフラ、そして人生の記録装置として並走するスターバックス。今朝見た『プラダを着た悪魔2』のコラボドリンクも、そんな「個人の日常に映画の非日常をちょっとだけカスタマイズして混ぜ込む」という彼らの計算通りの罠(あるいは粋な演出)なのだろう。
まぁ、その戦略に心地よくハメられるのも、悪くはないのだけれど。

活きるピースは揃っている
変わりたいのに変われない、理想はあるのに動けない
それは意志が弱いからではありません。無意識のうちに、複雑な整理を避けてしまっているだけです。
毎日が手一杯で、面倒を増やしたくない。そのせいで止まっているのです。
けれど、整理に向き合う勇気さえあれば流れは変わります。
まずは気軽に話すことから、停滞気味のキャリアは再び前に進みます。
