いのちのせんたく すべてに感謝

真面目な人が本当に苦しいのは、頑張ることではない。「頑張らない人」を見たとき、胸が締め付けられる理由

真面目な人が一番苦しくなるのは、目標に向かってひたすら努力する「頑張ること」そのものではないのかもしれません。むしろ、頑張らなくてもどこか大丈夫そうに見える人、軽やかに生きている人を見たときに、言いようのない胸の痛みを感じることがあります。

頑張ってきた自分と、頑張らない他者への複雑な感情

私たちは、社会の中で「こうあるべきだ」という規範や、自分自身の倫理観に沿って生きてきました。
ずっと周囲に気を遣い、約束は必ず守り、誰にも迷惑をかけないようにと、常に自分を律してきたことでしょう。それは、真面目であることの証であり、誇りでもありました。

だからこそ、そんな自分とは対照的な人を見ると、心がかき乱されることがあります。
例えば、平気で誘いを断れる人、多少適当でも周囲から許される人、あるいはルールに縛られずに自由に振る舞い、それでも愛されているように見える人たち。彼らを見ていると、どうしようもなく苦しくなってしまうのです。

悔しさでも、羨望でもない、もっと深い痛み

この苦しさは、単に「悔しい」とか「羨ましい」といった感情だけでは片付けられません。もっと根深く、心の奥底をえぐるような痛みです。

なぜなら、自分がずっと「正しい」と信じて守り続けてきた価値観や生き方が、もしかしたら絶対ではなかったのかもしれない、という事実に直面するからです。自分が懸命に積み上げてきたものが、別の視点から見れば、ただの「選択肢の一つ」に過ぎなかったのではないか。その可能性に気づかされたとき、これまでの努力や我慢が、一体何だったのだろうという虚無感にも似た感情が押し寄せます。

自分に許してこなかった「自由」への気づき

人は、他者の「自由な姿」が眩しいと感じるだけではありません。その自由な姿の中に、これまで自分自身に許してこなかった選択肢や、抑え込んできた願望、あるいは「こうしてはいけない」と蓋をしてきた可能性を見出すときに、最も苦しさを感じるのかもしれません。

私たちは知らず知らずのうちに、自分を特定の型にはめ込み、「こうでなければならない」という思い込みの中で生きています。しかし、頑張らない人、自由に生きる人を見たときに感じる胸の痛みは、自分自身が解放されることを求めているサインでもあるでしょう。

その痛みに向き合うことは、もしかしたら、これまでの自分を否定するようで怖いことかもしれません。しかし、その痛みこそが、自分をもっと自由に、もっと自分らしく生きるための、新たな一歩を踏み出すきっかけとなるはずです。